平成28年度 通称寺の会研修会が「だるま寺」「椿寺」で行われました
平成28年10月17日 平成28年度 通称寺の会研修会が「だるま寺(法輪寺)」「椿寺(地蔵院)」で行われました。
先に「だるま寺(法輪寺)」を訪ねました。
〒602-8366
京都市上京区下ノ下立売紙屋川畔行衛町
本堂にて会員一同で般若心経一巻を上げて、御住職の説明を受けました。
「だるま寺(法輪寺)」は臨済宗妙心寺派の名刹であり、享保十三年(1718)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚が創建したものです。
以来三度の天災地変に遇うも、近代に至り、昭和八年第十代伊山和尚の代、大書院が建立されました。
伊山和尚は起き上がり達磨禅を鼓吹して、得意の文筆と長広舌によって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、生活化をはかりました。
戦後、起き上がり達磨堂を建て、少林寺拳法道場を開く、かくして、だるま寺(法輪寺)の名は広く普及してきました。
達磨堂には三国随一といわれる起き上がりの達磨をはじめ、諸願成就に奉納された八千体に及ぶ達磨をまつります。
また願いを込めてダルマに御札が貼られています。
衆聖堂の階上には仏涅槃像と共にキネマ殿に尾上松之助や大河内伝次郎など映画人六百有余霊を祀られています。
毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与され、一山はことごとく達磨で埋まります。
各屋根には達磨の瓦が載せられ、窓は達磨の形をしています。
お寺の中は達磨尽くし、まさに「だるま寺」です。
次に「椿寺(地蔵院)」を訪ねました。
〒603-8332
京都市北区一条通西大路下ル大将軍川端町
こちらでも御住職の詳しい説明を受けました。
当院は昆陽山地蔵院といい通称「椿寺」と呼ばれています。
神亀三年(726)聖武天皇の勅願により、行基が摂津の昆陽池の畔に一寺を建立し「地蔵院」と号したのが始まりです。
天正十七年に豊臣秀吉の命により衣笠山より現在地に移りました。
当寺の通称である五色八重散椿は加藤清正が豊臣秀吉に献上した椿を北野大茶会の縁から、秀吉が当院に献木したものです。
白、赤、ピンク、絞りに咲分け、花弁が一片づつ散るのが特色です。初代は枯れ樹齢百二十年の二世が本堂前に咲きます。
毎年三月下旬から四月中旬に見事な花を咲かせます。見頃には多くの方が訪れます。
本堂には本尊の阿弥陀如来をお祀りしています。
もと八宗兼学であったが、寛文十年に善曳和尚の時に浄土宗となり本尊を五劫思惟の阿弥陀如来としました。
この本尊は東大寺の重源が招来したもので、善導大師の作と伝えます。
衆生を救う為に修行中の法蔵菩薩のお姿をあらわしたもので、大変珍しい頭髪をされた木造坐像です。
山門から正面に見える地蔵堂には元の本尊の地蔵菩薩をお祀りしています。
六尺の乾漆立像で安産の地蔵として霊験あらたかです。俗に「鍬形地蔵」「木衲屋の地蔵」とも言います。
お堂の前には御祈願の前掛けが多く架けられています。
背面にはもと北野天満宮の多宝塔の扉が取付けてあった。極彩色の閻魔天と火天が描かれており、現在は観音堂内に展示してあります。
観音堂には十一面観世音菩薩がお祀りされています。
五尺三寸の一木造で慈覚大師の作と伝えられています。雨宝童子、春日龍神を脇士とします。
この観音様は洛陽三十三観音霊場第三十番の札所になっています。
元旦から三日、春・秋彼岸、地蔵盆の八月二十三日。二十四日に御開帳が有ります。
また境内には天野屋利兵衛の御墓があります。
利兵衛は赤穂浪士の義挙に参画した堺の商人で、晩年当院に隠棲し剃髪して義士の冥福を祈りました。
厨子に入った木造が元禄五年の銘のある算盤と共に観音堂内に安置されています。
また俳人の夜半亭巴人の御墓があります。
椿の頃だけでなく、観音霊場として、又お地蔵様の願掛けに多くの方が訪れます。